人口減少社会試論・または次世代のための日本列島老人天国化論
ここ最近、日本の少子高齢化や人口減少を論じるオンライン記事を目にする機会が増えたように感じる。
日本社会が直面する最大の課題であることは間違いないし、以前から頻繁に論じられている課題ではあったのだけれども、それにしてもこれほどまでに目にする機会が増えたように感じるのは、現時点においてそれだけ注目が集まりやすく、PVを稼ぎやすい話題であり、来るべき将来の不都合に対する恐怖におののき、この国の行く末を嘆き憂うのが、時代の気分ということなのだろう。
一種のカタルシスであり、己の不遇をやや第三者的に消費しているようにも感じる。
かく言う自分も自国の将来を憂う一人であるのだけれど、どこかペシミズムに浸り、自己憐憫に酔っているのではないかと問われれば、思いあたる節がないではない。
悲観もひとつのエンターテインメントであり、人生のスパイスなのだ。
それはそれとして、人口減少を国家の存亡に関わる由々しき大事と捉えるのであれば、いかにしてこれからの惨事を防ぐのかを考えなければならない。
最もストレートな見解としては、出生数を増加させ、少子化に歯止めをかけようとする案がある。「減ってしまうのなら、それを補って余りあるように増やせばいい」という寸法だ。
理屈としては正論であるし、自分もそうなればいいと思う。
けれども、現実を見れば出生率を向上させるための特効薬があるとは、僕には思えない。それに、今さら出生率が上がったところで、生産年齢人口が増えるまでにはリードタイムを要する。親となる世代の母数自体が減少している以上、ちょっとやそっと出生率が上がったところで、焼け石に水なんじゃないだろうか。
また、出生を促進するために若年世代への優遇策を導入しようとしたところで、日本社会のマジョリティを占めるに至った高齢者層が許すとは到底思えない。
残念ではあるが、出生数の増加によって人口減少を反転させようとする考えは完全に詰んでいるように思うのだ。
この点で、出生数の増加させよとする政治家の訴えは、世迷い言であり、己の無策を吐露するに等しい行為ではないだろうか。竹槍でB-29...