表徴の国のアリス

いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である。

永続を志向する会社のミッションを事業に紐付けず、なるべく解釈のあそびを持てるような曖昧な内容にしたとする。果たしてそんな文言が求心力を持ちうるのだろうか?「存在理由」とまで言い切っているのに、それが今一つ釈然としないあやふやなものであったとするならば、そんな文言にそもそも意味はあるのだろうか?

この点、僕はミッションの本質はコンテンツそのものにはなく、それを伝える過程、デリバリーの中にこそあると思う。

既述のとおり、ミッションというのは組織を前進させるためのものであって、要は組織が燃え立つのであれば何だっていい。効果的なミッションの立て方やちょっとしたコツは存在するのだろうけれども、杓子定規の正しい方法論なんていうものはない。

ワークするのであれば、神格化した創業者のトップダウンでもいいし、逆にあたかも民主主義的な手続きに則って決めたかのような雰囲気を演出してもいいだろう(とんでもなく大変そうだけど)。

コンテンツ自体に意味はないのだから、多少表現にぶれがあっても構わないのだ。

権威付けも何だっていい。「偉大な創始者がこうした訓えを残した」でもいいし、「過去の艱難辛苦をカクカクシカジカの理念で乗り越えた」でも、「みんなの考えをみんなが参加して言葉にした」でも構わない。一定の納得感が醸成されさえすれば、それでいいのだ。

勘所としては、なるべく大衆受けしやすい内容がいい。どこぞのビジネス誌が背景の薀蓄と絡めて「この理念こそが組織の飛躍の根源!」などとコラムに載せて、それを出張帰りの新幹線の中でビール片手に読んだおじ様が「左様であるか」とほくそ笑んだならば大成功。

それよりも重要なのは、むしろその内容の届け方である。どうやって集団に染み込ませるか。どうやって組織の染色体に刻み込むか。それこそが問題だ。

端的には、ある種の同調圧力をどうやって形成するかがポイントになる。

内容はどんなものであれ、自分を取り巻く周りの人たちがそれを重要なものであると認識して大切そうに扱っており、なんとなく自分も周囲の人たちに倣い、それを有難がらねばならないような雰囲気。これをいかに醸成するかだ。

本来、直角に交差する2本の棒線には何の意味もない。けれども、自分が尊敬する周囲の大人たちが有難がってそうした模様を掲げ、「これは2000年前に、我々の救世主が我々の罪、咎、憂いを一身にお引き受けなさった象徴だ」と謂れを熱心に語ることによって、そこに命が吹き込まれる。

2本の棒は突然、意味を放ちはじめ、そこはかとない有難味が醸し出される。自分も同じくそれを崇めることで、集団への所属願望が満たされ、一種の高揚感が内側からひしひしと湧いてくる。いかにそれが大切そうに扱われているか、それこそが重要なのだ。

宗教、国威発揚、マルチレベル・マーケティング。各々の傾向と対策はそれほど変わらない。

法事の度に耳にする読経にしたって、多くの人には何を意味しているのか、全く分からない。それでも単調なリズムに周囲の人たちと共に神妙に耳を傾けている内に、意味は分からないまでも、なんとなくり厳かな気分になってしまう。

「色即是空」なんて文字を見ると、なんとなく深淵な意味が隠されているような気がしてしまい、勢い余ってタトゥーのモチーフや、はたまた特攻服の刺繍に採用したくもなるのだ。多分。

一心不乱に拝み倒し続ければ、きっと空飛ぶスパゲッティモンスター教だって一大勢力になるに違いない。

額縁に大切そうに飾られた経営理念は、シニフィエとして捉えた方がいい。それは自ずから意味を放ちはしない。意味は吹き込むのだ。

 
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