あいまいなカイシャの私

「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」

仮に永続性を前提にした組織を志向する場合、掲げるミッションの勘所とはどのようなものだろうか。

この点、僕は如何ようにでも拡大解釈し得る、しなやかさを持った文言が良いと思っている。

多くの事業には賞味期限がある。賞味期限の長短こそ特性によって異なるものの、そのタイミングが遅かれ早かれ、経年劣化が想定される。一方で、そうした事業を運営する組織そのものには永続性を持たせなければならない。だとすると、ここに矛盾が生じる。

この矛盾を乗り越えるためには、既存の主力事業を乗り越えて、常に自身の活動の幅を再定義し直す思想を予め組織に埋め込んでおくべきなのだと思う。端的に言うと、極力、今目の前にある事業と直接的に密結合し過ぎないアイデアを充てるべきなのだ。

時代の風雪に耐え、手垢がつくことなく、なるべくファジーで広い意味を持たせ得る普遍的な言葉が望ましい。

ここで事業単位のミッションと組織のミッションは独立に存在し得るということに注意されたい。法人格とは別に、事業そのものにも架空の人格を想定するのであれば、事業単位で目指す世界観というのはあくまでその事業に立脚したものであるべきだ。

事業はプロジェクトであっていい。具体的な理想を追いかけて、その使命を全うすれば喜んで解散すればいい。(尤もこれは、組織に対しても言えることだけれども)

事業のミッションを組織のミッションと混同してしまうと、事業の重力に組織が巻き込まれてしまう。事業の方がより手触り感があって具体性がある。想像しやすいし、わかりやすい。だからこそ求心力を持ちすぎてしまう。両社は似て非なるものである。混ぜるな危険!

組織の永続を目指す以上は、事業と同時に、なるべく組織に求心力を持たせなければならない。そうしなければ、事業への強烈な愛着が芽生える一方で、組織に対するロイヤリティーが欠如した集団が生まれてしまう。ひとたび事業が不調を来すと、この結束は相当に脆い。

組織へのロイヤリティーを醸成する上では、ありとあらゆる手段がある。その中でも、組織として掲げるミッションというのは手段としてなかなか有効に働き得るのではないだろうか。

ここで「存在理由」であったはずのミッション自体が「手段」として扱われるところに何とも釈然としない気持ちが残るのだけれど、それはまた別のお話し。

こうした要件を考えると、例えば「情報革命」といった文言からは、極めて絶妙なバランスを感じる。あたかも特定の事業領域を指し示しているかのような一方で、いくらでも解釈の幅を広げることができ、その内側に新たな事業領域を取り込むことができる。またそこに時代の進行方向に即した思想やロマンを吹き込むことができる。繰り返し聞いていると、なんとなく「いっちょやったろか!」という気持ちが湧いてくる。

新時代型の財閥、総合商社、事業会社の皮を被った投資ファンドを志向する上で掲げるお題目としては、恰好の内容ではなかろうか。

キリスト教がここまで普及し存続した理由として、時代ごとの為政者の要請に応じて適宜、教義を解釈し直すことができる柔軟性があったからだという指摘を聞くことがある。原理主義に奔ればカルトと呼ばれる。時代に即したバランス感があるということだし、捉えようによってはある種の節操のなさとも言える。

永続を目指すのであれば、組織のミッションも同様に捉えるべきなのだろう。

 
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