赤の女王の走りかた

“Now, here, you see, it takes all the running you can do, to keep in the same place. If you want to get somewhere else, you must run at least twice as fast as that!”

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平成27年のパウロ達へ

君に存在価値はあるか

そしてその根拠とは何だ

ミッションって何だろう。

組織を取り巻く価値観については様々な呼称がある。ミッション、ビジョン、バリューといった横文字もあれば、社訓や社是、経営理念といったものもある。アカデミックには、これらについて詳細な分類や定義が存在するのかも知れない。浅学にしてそうした整理には不案内である。

ジャック・ウェルチなどは、ミッションについて、「私たちがこのビジネスでどうやって勝とうとしているのか」に答えるものだとしている。きっとそうした要素もあるのだろう。

けれど、あくまでビジネス上の勝敗に閉じてミッションの存在を定義している時点で、これは相当限定的な解釈であると思う。

組織とはビジネスに限ったものでもないし、また必ずしも「勝敗」に閉じたものとも思わない。もう少しその手前、そもそもなぜ人々がそのビジネスで勝とうとしているのか、その事業に取り組んでいるのかについて答えるべきものであるように思える。

この点、全くの素人解釈ではあるのだけれど、敢えて「ミッション」という言葉に、一定の意味を与えるとすれば、それは組織が何をするために存在しているのか、何のために人々がその組織に集まっているかを指し示す一式のフレーズであると捉えることができるのではないだろうか。存在理由と呼び換えてもいい。

翻って日本で登記されている企業の内、こうしたミッションや社訓を掲げているものはどれ程あるのだろうか。想像するに、恐らく9割9分の会社はこの手の文言を明示的には掲げていないのだろう。パパママショップを始め、世間のほとんどの会社にはこんなものは関係ない。無用の長物である。多くの場合、事業とは口に糊するための手段であり、稼業であって、わざわざ七面倒くさい御託を後生大事に並べる必要もないのである。

創業メンバーやマネジメントと組織の構成員の距離感が近く、各々が直接的に顔を突き合わせていられるうちはそれで良い。創業者の一つ一つの言動や所作、エピソードの数々が轍となり、組織を方向付ける羅針盤となる。「創業者かく語りき」という神話が綴られ、語り継がれ、自生的に文化が...

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論語と算盤と私2号

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

「ミッション」と「存続性」の両輪を秤にかけたところで、そのどちらに重きをおくか。これは組織の特性によって異なるし、同じ組織であってもその時々の状況によって変わってくる。

例えばNPOの場合、どんな理由であれ、何か成し遂げるべき大義が掲げられており、それに共鳴した人々が集まってプロジェクトを進めていくというのが本来のあるべき姿だろう。あるNPOにとって大義というのは地域の高齢者に関するものかも知れないし、あるNPOにとっては途上国の医療支援に関するものかも知れない。

実際のNPOを見てみると、半永久的に到達し得ることがなかろうサクラダ・ファミリアのようなミッションを掲げるものが多い。それはそれで良い。けれども、大義の旗の下に集まった集団である以上は予め終わりが来ることを想定し、組織のデザインに埋め込んでおくべきだと思う。ミッションを実現するために集まった組織のはずなのに、存続自体が目的化してくると色々な人々の利害関係が交錯し、段々とややこしいことになってくる。もしも理想を実現したのなら、スパっと解散することを織り込むべきなのだ。

一方でこれが自治体や国家となると、そうも言っていられない。自治体の場合、そこで暮らす人々の生活を支えるために、各地域の政府が破綻を起こすということは、本来はあってはならないことだ。だからこそ、ちゃんとお金の「入り」と「出」の帳尻を合わせましょうということなのだけれども、各論に入った瞬間全ての議論が停止して先送りされてしまうのはお馴染みの光景だ。

反面、全体最適の観点に立つとこの価値判断も変わる。「リソースが減ってんだから、個別の単位は統合するか、なくすべきだよね」という話に当然なる。もうほとんど自然の摂理であって熱力学の法則だったり物理の問題なのだけれど、これを倫理の問題に挿げ替えられて騒ぎ立てられるとなかなかしんどいものがある。どのような組織であれ、中央と周縁の緊張関係はいつもこうした視座の違いに起因するのだろう。

両輪の軽重は、組織が置かれた状況...

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論語と算盤と私

義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界

経営って何だっけ。

浅学の身、乏しい経験とはいえ、これでも上場企業、スタートアップ経営者の端くれ。経営を担い、垣間見てきた人間として、これは真摯に向き合うべき禅問答なのだ。

経営者というのはあくまで営業や研究開発、製造、顧客サポートといった各機能の担当者と同じく役割だろう。指揮系統上の秩序は要請されるものの、個々人と結びついたヒエラルキーに関するものではないし、ましてや位階であってはならない。

(この点、創業者は単に経営者である以上に、ある種の呪術的な影響力を持った存在であることに注意されたい。創業者と経営者って必ずしもイコールではないのだよね)

ただその一方で、CEOって仕事の役割、要件というものはあまりにもフワッとしている。CFOは会社の資金調達や市場とのコミュニケーションを担う責任者、CTOは全社の技術的な側面における責任を持つというのは理解できる。けれども言うに事欠いて、”Executive”って何やねん。

組織の最終的な意思決定に対して責任を担う役割と言えばその通りなのだけど、なんだか分かったような分からないような説明だ。「じゃあおめーは何やってたんだよ?」と問われれば、それはそれで色々とやってたんだけどさ。

そもそも一概に経営者と言っても、その時々でやっていることが全く違うし、会社の成長ステージによって求められるスキルセットは大きく異なる。

拙いなりに自分の言葉に落としてみると(当てずっぽうでも言ってみること大事!)、経営というのは「組織が実現したいこと」とそのために必要な「組織の存続」を担保すること、この両輪を上手くバランス取りながら回し続けることだと思う。前者は何をしたくてその組織が存在しているのか、それを「ミッション」と呼んでもいいし、存在理由と呼んでもいいだろう。

ここで言う「経営」というのは、何も株式会社を対象に絞った話ではない。NPOであれ自治体であれ教育機関であれ、複数人が集まる集団、組織であればどこでも役割だ。

真に優れた経営者は業界を問わず、はたまたビジネス、非営利、パ...

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菊と刀とスタートアップ

「組織への執着」と並んでもう一つ、なんとなく日本企業にありがちやな~と感じるのが「日本発」に対する拘り。

これもまた、清く正しく「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を守り続けるエスタブリッシュメントの専売特許ではない。スタートアップ創業者の口からも、「世界に向けて誇れる日本発の企業」といったフレーズを耳にすることがままある。

なんとなく、『官僚たちの夏』なノリが漂う。

強烈なブランドがあり、産地の提示が高品質を保証するシグナルとして機能し得るのであれば、地域性を強調するのは有効な手段なのだろう。

国産牛なら「松坂牛」を食べたいと思うものだし、「ドイツ車」と聞けば脊髄反射で「頑丈なんやろな」と想像する。本当かどうかは知らない。

“Designed by Apple in California"もなんとなくクリエイティブな香りがする。
逆に、地域のブランド化を企図しているのであれば、これもまた理解できる。

世界に羽ばたけ鯖江のメガネ。アニメKawaii!クールジャパン。えとせとらえとせとら。。。

ただ、「日本発の」と口にするとき、そのフレーズにはマーケティング上の要請以上の何かが込められているように感じる。日本製品に対する信頼感云々といった話とはちょっと違う。地域性というよりは、国家や国民性にスポットライトが当っており、なおかつ問答無用でそれを是とするような空気感だ。

本来、顧客が求めているのは優れた製品や優れたサービスであって、それがアメリカ製であろうが中国製であろうが日本製であろうが関係ない。地域の名前が製品・サービスの訴求に寄与するのであれば提示すればいいし、ネガティブに働くのであれば出さなければいい。

そもそも、これだけ地域を跨いだ国際分業が進んでしまえば、「XX発」という主張はあまり意味をなさなくなってくるし、それ以上に、国民国家の境目を自由自在に飛び越え得る点が、会社という枠組の面白さだとも思う。

オリンピック代表でもないのだし、殊更「日本」を強調する必要は感じないのだけど、どうなんやろね。なんとなくお約束として言わなくちゃいけない感。

あくまで個々人の趣味の...

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ベイエリアの沙羅双樹

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

なぜ、人は組織に永続性を求めてしまうのか。なぜ、人は目的を実現するための手段として以上の意味を、組織に見出してしまうのか。

僕はそのことに興味がある。

ベイエリアの新興企業(「スタートアップ」と呼ぶのが当世風だけど、「ベンチャー企業」と呼んでもいい)やキャピタリスト、学者と話をしていると、彼らが会社をビークルやある種のプロジェクトであると割り切って考えていることに気づく。随分とさっぱりしている。

先日も、1年ほど前に事業を立ち上げたところだと言うアド系スタートアップの創業者と話していたところ、突然「次はメッセージングアプリの周辺領域で事業を始めたいんだよな」だなんてことを言い出し、思わずラテを吹き出しそうになった。なんでも、買収意欲を示している数社からコンタクトがあるらしく、今年の前半には早々にイグジットしようと考えていると言うのだ。事業も順調に成長しているようだが、会社に対する執着は一切ないようだ。それだけ機会が多いということだろうし、時間の進み方も早い。

彼らは好機があれば躊躇なく会社を売る。そもそも買収を前提に逆算して事業を組み立て、資金を調達する。

じゃあファウンダー以外のスタッフはどうかと言うと、彼らも予め会社がバイアウトされることを予期して働いているし、会社が売却される前にはSOも行使でき、概ねハッピーらしい(アメリカでのストックオプションの税制適格の要件がどうなっているのかについては、よく分からない)。

もちろんN数は限定的だし、サンプルは偏っている。同じアメリカでも、デトロイトくんだりの自動車メーカーの従業員あたりに聞いてみたら、恐らく違った答えが返ってくることだろう。

だが、ことベイエリアのスタートアップ界隈に関して言えば、会社の永続性は重要視されていない。ファウンダーが徒にIPOを目指すことはないし、起ち上げ段階からバイアウトを通じたイグジットを狙うことを広言して憚らない。元も子もない言い方をすると、「IPOだなんて、そんな...

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