マイナス・トゥ・ゼロ

帝王之業,草創與守文,孰難?

一括りに「経営者」と言ってみても、業態や会社の規模感、ステージによって、実際に取り組んでいる課題や業務の内容は大きく異なる。この点、我流の解釈ではあるのだけれど、僕は「経営者」という職業を、ステージによって異なる呼称に分類している。

まず、全く何もない所から事業を起ち上げる人。いわば0→1の仕事(みんな大好きピーター・ティール!)なのだけど、こういう経営者のことを「起業家」と呼んでいる。

次に、1に育った事業を10の規模感まで育て上げる人、転がり始めた事業を一人前の事業まで育て上げる人のことを「事業家」と呼んでいる。

最後に、事業が10まで育った会社のステージを100まで持っていく人。これを狭義の意味での「経営者」と呼んでいる。ここで、「10を100にする」の意は、単一の事業の規模感を10から100にするということではなく、10まで育っている事業を×10個並行して回すことを想定している。ステージの進展と共に、徐々にフォーカスが事業から組織に移るイメージだ。

ここまで書いて、そういえばマイナスの状態を0まで持ってくるってのもあったなぁと思い出したのだけれど、こういうのは「ターンアラウンドマネジャー」やら「再建屋」と呼べばいいんだろうか。なんかもうちょっとセンスの良い言い回しがないもんかね。

言うまでもなく、どのステージの経営者がより優れている云々といった、優劣の問題ではない。

全くもって我流の解釈だし、感覚的な分類で、特に厳密な定義もファクトもない(そんなもの僕に期待しないでおくれ~)のだけれど、僅かばかりの自分の経験とお会いする方々のお話を総合して考えるに、この3段階(プラス1段階)のステージによって経営者に求められるスキルセットやマインドセットの違いは相当大きいように感じる。

初っ端から先発登板するのと、途中から救援リリーフするのでは、全く異なるアートなのだ。片や事業を起ち上げることに四苦八苦するし、片やチームや文化を自分で作れない苦労があったりと、どちらにもそれぞれ大変な面はある。基礎体力が重要という点は共通していても、やっていることはサッカーと野球くらい違う気がするのだけれど、どうなんやろ。

中には全てのステージを自身で全うできるようなスーパーマン経営者もいる。会社の一貫性を保つ上では、できれば創業者が成長し続け、オーナー経営者として辣腕を振るい続けることができれば、それに越したことはない。会社の成長に併せて、一緒に成長し、脱皮し続けるのが理想だ。ただ、どうしても人には得手不得手というものがあるもので、創業者に対して過剰に続投を期待するのは、それはそれで酷な話だ。創業者自身が変わることができないのであれば、替わる方法を模索した方がよい。

例えばマイナスをゼロにするという役割に最も求められる要件は何かといえば、これはストレス耐性なんじゃないかと思う。

頭で考えること自体は大して難しくない。一定の規模感がある中で、当たり前に当たり前のことをやりきる。ベストエフォートを尽くしきった末に、結果が付いてくるかどうかは神のみぞ知るだけれども、やること自体は存外シンプルだ。

ただ、「当たり前のことをやりきる」というのはなかなかの曲者で、言うは易けれどもやってみると結構しびれる。マイナス局面で放っておくと自然落下してしまう状態を振り切り、重力に逆らって再び飛び立つにはそれなりにタフな意思決定というやつが必要だ。だが、このタフな意思決定というやつを下すと確実に嫌われる。とことん嫌われる。蛇蝎のごとく嫌われる。それでも、そこでプロとして当たり前を貫くことができるかどうかによって、その人の真価が問われるのだと思う。

常々感じるのだけれど、「マイナス→0」段階の経営者にとって(ひょっとしたらどの段階の経営者にとっても)、役員報酬は精神的な苦痛に対する慰謝料だ。多くの場合、額自体は一般社員としての給与と比較すればそりゃあ多いもんだけれど、そこまでに磨り減った魂やら、貯め込んだカルマポイントやらを思うに、それらを補填して余りある大きさなのかと自問すれば、冗談じゃねーよと即答してしまう。報酬で苦痛が癒えるものではないし、そうした痛みはずっと引きづり続けることになる。あんまり割に合う商売ではない。それでもそこに飛び込んでしまうのは、内から自然と沸き立つ止むに止まれぬ燃え立つ感情からなのだろう。理屈とか損得とかそういうことじゃなくて、理由はないのだけれどとにかく自分がやらなくちゃいけないという思い込みなんじゃないだろうか。辛いのが嫌ならやってんじゃねーという話だ。

何はともあれ、ステージによって求められるものは全く異なる。

似たような話でありがちだな~と思うのは、プロデューサーや事業責任者を経営者と錯覚してしまうこと。ここにもかなり大きな隔たりがある。

さらに言うと、会社員の出世競争の延長線上に本来、取締役はあってはならないはずだ。どうしても部長、本部長、執行役員と来て、その次には取締役を目指してしまうのが人情ではあるし、気持ちとしては非常によくわかる。けれどもやはり経営と執行の間には大きな隔たりがあるし、それを役職に置き換えれば、取締役と執行役員の間には大きな断絶があって然るべきではなかろうか。少なくとも、視座や向き合う相手、求められるものも含めて根本的なジョブチェンジであるというくらいに思っておいた方がいい。こないだお邪魔した内輪の勉強会でも同じような話題が上がっていたので、どうやらどの会社でも生じる、あるあるネタらしい。

いずれにせよ、ステージによって求められる役割に違いがある以上、創業者に対して妙なセンチメントを抱かない方がいい。それが会社のためでもあるし、また本人のためでもあると僕は思う。FounderとCEOをイコールで捉える必要なんてないのだ。

この点、シリコンバレーだと経営者の人材プールが充実していて、その時々によって最適な人材が経営の舵を執るとも聞く。正直、これがどこまで本当なのか、どこまで回転ドア人事的なアサインがきちんと機能しているのかは不勉強にしてよく分からないし、確信めいたことは何も言えない。

けれどもシリコンバレーに限らず、アメリカ全体で、経営者がある種の専門職として存在し得るということは、会社を常に最適な状態で動かし続ける上で、かなり有効なんじゃなかろうかという気はする。願わくば日本でもそんな土壌がより整ってこればいいと思うのだけれど、「プロ経営者」という表現自体が奇異に受け止められたり、嘲笑の対象になるのであれば、まだまだなんだろうなぁ。

昨日飲み過ぎたワインでなんだか胃がヒクヒクするのだけれど、二日酔い気味の頭で、そんなことを考えております。

 
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