問い
私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。
限られた乏しい経験を通じて痛感していることの一つが、「解くべき問いを間違えてはいけない」ということ。試行錯誤を繰り返したとしても、問いが正しければ解にたどり着くことはできる。
これが数学の試験問題であれば、予め定められた時間の中で解を導かなければならない。けれどもビジネスであれば、キャッシュが続く限りは異なる解法を試し続けることができる。コストを削り、資金を調達することで、命のロウソクが燃え尽きるまでの時間を引き延ばすことだってできる。問いさえ間違っていなければ、見込みはあるのだ。
ところが、そもそもの問い自体が間違えていれば、その過程の努力が報われることはまずもってないだろう。どれだけ賢い人たちが、どれだけ熱意を持って、どれだけ懸命に取り組んだとしても、ダメなものはダメ。これはもう、重力に逆らうのに等しい行為なのだ。
問題は、目の前の問いが、解くに値する問いなのかどうかということだ。判断が分かれる点ではあるけれども、少なからぬケースで当事者は、その問いを解くべきかどうか、既に知っているのではないだろうか。それなりに真剣に自分の行為に向き合っている人間であれば、気づいているものではないだろうか。
それでは何故、人は間違った問いに向かってしまうのか。得てしてその理由は、サンクコストを「サンクコストだ」と宣言する勇気がなかったり、自分自身の執着心や意地に流されてしまったり、周囲の人達を制止して嫌われたくなかったりする、気持ちの弱さにあるのではないだろうか。着手してしまったものに、終止符を打つのが面倒なだけなのではないだろうか。
そうやって、決して解けることがないと分かっている問いを、惰性でダラダラと解き続けてしまうのだろう。誤った問いに取り組むポーズに逃げ込んでしまうのだろう。
僕はこれを、誠実さに欠けた態度だと思う。