論語と算盤と私2号
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
「ミッション」と「存続性」の両輪を秤にかけたところで、そのどちらに重きをおくか。これは組織の特性によって異なるし、同じ組織であってもその時々の状況によって変わってくる。
例えばNPOの場合、どんな理由であれ、何か成し遂げるべき大義が掲げられており、それに共鳴した人々が集まってプロジェクトを進めていくというのが本来のあるべき姿だろう。あるNPOにとって大義というのは地域の高齢者に関するものかも知れないし、あるNPOにとっては途上国の医療支援に関するものかも知れない。
実際のNPOを見てみると、半永久的に到達し得ることがなかろうサクラダ・ファミリアのようなミッションを掲げるものが多い。それはそれで良い。けれども、大義の旗の下に集まった集団である以上は予め終わりが来ることを想定し、組織のデザインに埋め込んでおくべきだと思う。ミッションを実現するために集まった組織のはずなのに、存続自体が目的化してくると色々な人々の利害関係が交錯し、段々とややこしいことになってくる。もしも理想を実現したのなら、スパっと解散することを織り込むべきなのだ。
一方でこれが自治体や国家となると、そうも言っていられない。自治体の場合、そこで暮らす人々の生活を支えるために、各地域の政府が破綻を起こすということは、本来はあってはならないことだ。だからこそ、ちゃんとお金の「入り」と「出」の帳尻を合わせましょうということなのだけれども、各論に入った瞬間全ての議論が停止して先送りされてしまうのはお馴染みの光景だ。
反面、全体最適の観点に立つとこの価値判断も変わる。「リソースが減ってんだから、個別の単位は統合するか、なくすべきだよね」という話に当然なる。もうほとんど自然の摂理であって熱力学の法則だったり物理の問題なのだけれど、これを倫理の問題に挿げ替えられて騒ぎ立てられるとなかなかしんどいものがある。どのような組織であれ、中央と周縁の緊張関係はいつもこうした視座の違いに起因するのだろう。
両輪の軽重は、組織が置かれた状況によっても左右される。
例えば駆け出しのスタートアップであれば、良質な製品、サービスの提供といった事業内容に密着したミッションの実現に重きが置かれる。ところが事業が順調に推移し、株式市場に上場でもしようものなら、景色は一変する。
上場企業はゴーイングコンサーンであることを前提とするため、途端に「存続性」の重みが増すのだ。非上場時には内輪の好みで全てを決められたかも知れないが、古き良き時代とは決別しなくてはならない。
事業なんていい時もあれば悪い時もあるわけで、会社は潰れるときは潰れる。
上場後も既存事業が堅調に推移している間はいいが、成長が止まった瞬間、それまで覆い隠されていた様々な矛盾が明るみに出る。そうした状況下においては、元来のミッションは差し置いてでも組織の存続を優先すべきであるし、組織の存在理由自体もアップデートを迫られる。ドグマに囚われてはならないのだ。
そもそも「継続企業の前提」とは随分と無理のあるコンセプトだ。ほとんど共同幻想やフィクションの類だと言っていい。けれども、そういうルールに則ってプレイしている以上、後出しでルールにケチをつけても仕方がない。嫌なら最初から上場なんてしなければいいし、事情が変わったのなら他社に売却するなりMBOするなりするのが筋の通し方というものだろう。
果たして、こうした「ミッション」から「存続」への急激な力点移動にどれだけの会社が耐えることができるのか。後から「そんなの知りませんでした」では話にならない。貴殿にその覚悟はおありで?
組織に即して「経営」について考えてみたけれど、一部は個人にも当てはまる内容かも知れない。(そういえば「アイ・カンパニー」なんて言葉もあった)
例えば永田町の先生方というのは、もともとは成し遂げたい政策なり志があって政界に身を投じるのだと思う。そうあって欲しい。「料亭行けるしBMW買える!」と考えて政界を志す先生というのはさすがにいないだろう。(だったらもうちょっと効率のいいやり方があると思う)
ところが、そうした志を実現するためには政権与党の中で確固たるプレゼンスを築かねばならず、そのためには再選を重ねて領袖の地位を伺う必要が出てくる。選挙に勝たないことにはどうにもならないのだ。次第に政策と選挙、どっちが大事だったのか分からなくなってくる。当選のために信念を曲げるなんてことになった日には目も当てられない。
昔、議員のカバン持ちをさせていただいていた際、毎日のように地域の老人の会合に参加なさる先生とお会いした。なんでそんなに老人会に日参するのかと尋ねる僕に、議員はこう答えた。
「毎日まじめに会社で働いている若い人達は、週末は疲れて寝てんだろ?選挙なんて来ないんだから。老人は暇だから来るんだよ。だからこういう人達にちゃんと顔を覚えてもらわなきゃな!」
一面の真実ではあるのだろう。けれども競うように老人会をハシゴしてマイクを掴む先生方を見ている内に、政治家とは理想とする政策を実現する仕事なのか、選挙に当選する仕事なのか、それがわからなくなり、なんだか白けてしまった。
まぁ若かったんだな。
閑話休題。
ほとんど観念論に近い定義ではある。実務はこうもスッパリ割り切れるものではない。あくまでも一面の解釈であって、群盲象を評すの誹りは免れ得ない。
けれども、盲人は盲人なりに予めこうした解釈を用意しておけば、組織や法人といった形のないモノの扱い方、捉え方が少しはすっきりする。両輪のバランスを取る上で、経営者の役割が変わってくることも理解できる。なにより、経営者自身が自分の本来の役割を果たしているのかを確かめる上でのリトマス紙としては、僅かばかりの意義があるのではないだろうか。そんなことを思うのだ。