アンラーニング
I wish to stay forever, letting this be my food
But I’m caught up in a whirlwind
And my ever changing moods
「戦略とは捨てることである」と、誰かが言っていた気がするけれど、周囲の環境が移り変わっていく以上、未来にわたって生存するために、過去の成功体験や既存の事業、存立基盤を随時見直して、段階的に捨て去っていく必要があるのは、至極当然のことだろう。
個人に置き換えて考えてみると、何かを新たに習得すること、ラーニングと同等に、体に染み付いた経験則を環境に合わせて捨て去ること、アンラーニングすることもまた、自分自身のOSをアップグレードし続けるために必要なことなのだろう。
さて、我が身を振り返って、最初の職場での学びからアンラーニングしたことをざっと思い返してみると、こんなところだろうか。
- 緻密な資料をつくること
顧客に対してスキのないロジックとファクトで固めた高いクオリティの資料を提出することが求められる客商売であれば必須の条件だけれども、内輪であれば、その場で板書して口頭で説明する方がよほど手っ取り早い。
そもそも手間暇をかけて緻密な資料を作っても、世の中の大半の人はそんな事細かい内容を読んでもくれない。 - ポジションを取ること
限られたメンバーの中で、短期間で仮説検証を繰り返しながら解を出そうという基本姿勢について合意形成ができていれば機能するけれど、信頼関係のない人を相手にやっても、ただの極論野郎、炎上マーケティング扱いされるだけ。 - 誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断すること
何を言ったかで判断するということは、予め人がフィルタリングされており、なおかつ共通の目的に対して私心なく取り組める集団の中でこそ成立する。
無菌室から飛び出すと、話す内容は人によって相当クオリティがばらける。何より、それぞれがそれぞれの利害関係を持って発言している。
言った内容で判断すること自体は間違っていないのだけれど、そこに至るまでの間に自分なりのフィルタリングが必要だし、相手の思惑を探りつつ判断しなければならない。
アンラーニングするということは、習得していた学びが全くのムダになるのかといえば、決してそんなことはないのだと思う。単に新しい環境で今までの知恵が活きなくなっただけで、また新たな環境に移れば、そうした学びが活きる時が来ることもあるのだろう。年輪を重ねるごとに、芸風の引き出しが増えていくということなのだと思う。
願わくば、新陳代謝を繰り返して芸の幅を広げられれば。